愛の予感 予感から再生へ

秦 早穂子

人は失ってしまった心をどんな風に取り戻し、蘇らせていくのだろう。監督小林政広は、独自の映像言語で主題に迫っていく。
14歳のひとり娘を同級生に殺された父。すでに妻を癌で失くし、彼はひとりになってしまった。母子家庭とはいえ、普通の暮らしをしていると思っていた母。娘が突然、友だちを殺したー。
こうした事件は、日本のどこかで、かたちを変えながら、数を増している。映画は、この父、この母の、その後を追う。
新聞社を辞めた父は、北海道のある鉄工所で肉体労働者になった。食べる、働く、眠るだけの毎日。
殺人者の娘を持つ母は、生まれ故郷の北海道に戻り、更に知らぬ町へと流れて、下宿北上荘で、通いの賄いの職を得た。決して許せない、償い切れない過去の重荷を背負ったふたりが、行き着いた所は、図らずも同じ宿だった。
社会状況、日常の夾雑物、他者の介入を排除し、会話、音楽すらない。今や人間を支配する携帯電話も棄てられる。ふたりの後姿をカメラが執拗に見つめるだけだ。いつも同じような映像と音の繰り返し。溶鉱炉の火を吐く音。車の発車音。廊下をするスリッパ、又は馬鈴薯の皮を剥く、卵を割る、フライパンに油の跳ねる音。
あの父と、あの母は、毎日、同じパターンの行動のなかで、いつから、ひとりの男、ひとりの女として存在し始めたのだろう?ふたりの仕草から変化を発見するのは不可能だし、まして彼らの心の内が判るはずもない。ゼロ地点で息を殺した男と女の、それぞれの日常を、見る側はうんざりするほど突き付けられる。見えてくるのは、働く男。食事する男。彼は下宿で、朝晩、飯、味噌汁、生卵だけを食べ続ける。主菜は手つかずのまま。それをじっと窺っている女。
一日の仕事を終え、ひと風呂浴びようと、ズボンのジッパーを下げる。その音。肉体は意外にがっちりしている冴えない中年男は、自分の顔を取り戻し始めた。そして、ある日、杓文字(しゃもじ)に一杯の味噌汁が二杯になる。別の日は、主菜に手をのばし、又の日、生卵の代わりに、女が作った目玉焼きを口にする。
初めのうちは黒眼鏡をかけ、前髪でかくされた女の顔は全く見えない。自分の顔がない女は、娘のことも理解できず、自分のことも判らない。朝の仕事が一段落すると、女はコンビニで昼食用のサンドイッチとパックの飲み物を買い、アパートに戻る。夜は北上荘の流し場での立ち食い。その後ろ姿に新香を噛む音をかぶせる。
小林政広の描く女は、しばしば無愛想で不快でさえある。心理分析をせず、解釈を与えず、実存そのままの女を放り出してくるからだ。自分の心も掴めず、表現できない女は、男を殴る。この辺りから、女の顔が見えてくる。カリカリ新香を噛む音が、なぜか、なまなましい。
被害者と加害者の立場を超えて、男と女として互いを意識し始めると、反復されてきた画面がぎごちなく動き出す。すべては、この予感をつかむための過程だったのだ。人生に、一度か二度、必ずやってくる予感。そこにはエロティックな匂いさえ漂う。エロス、つまり、生の本能が持つエネルギーが再生のきざしを暗示する。
過去の痛みから浮上して、愛に至るかもしれない男と女の、今日から明日につなぐ、一瞬の感情のきらめき。映画の常道をぶち破って、ささくれた日常のなか、取り戻したい心を、小林政広は過激に一気に叩きつける。

「愛の予感」パンフレットより